トップページに戻る
  少年リスト   映画リスト(邦題順)   映画リスト(国別・原題)  映画リスト(年代順)

Nine Meals from Chaos 終末の混沌を如何に生き抜くか

アルゼンチン映画 (2018)

イヴァン・ノエル(Iván Noel)監督の最新作。イヴァン・ノエルは、『En tu ausencia(心奪われて)』(2008)で初監督して以来、『Brecha(ギャップ)』(2009)、『Vuelve(ウエルベ/妄執)』(2013)、『Limbo(リンボ/辺獄の子供たち)』(2014)、『Ellos Volvieron(戻ってきた3人)』(2015)、『La tutora(家庭教師)』(2016)と、異常な状況におかれた少年 もしくは 少年たちが主人公の作品を作り続けてきた。それらの中でも 異常さが際立っているのが、この最新作だ。何らかの大異変が地球全体を襲った後のアルゼンチンの田舎を舞台に、その10年後、人間が如何に残虐になれるものかを赤裸々に描いている。哺乳類や鳥類はほぼ死に絶え、魚は残っているのに、肉食圏の発想なのか、食べるものは人肉! 孤児はウサギやニンジンを盗み、大人は盗みに来た子供を捕らえては生のまま食べる。その想像を絶した発想が怖い。映画では、ある孤児の集団が、1人の少女の発言に引きずられ、“約束の地”を目指して苦しい旅に出る。そして、その先に子供たちを待っていたのは、思いもよらぬ結末だった。題名の『Nine Meals from Chaos』は、直訳すれば「混沌からの9回の食事」。内容とも違うし、意味の通った日本語ではない。この題名は、ナショナルジオグラフィックのTV番組「Doomsday Preppers(プレッパーズ~世界滅亡に備える人々)」のSeason 1の第6話(2012年)、『Nine Meals Away From Anarchy(崩壊の序曲)』にヒントを得たのかもしれない。また、ガーディアン紙の2010年の記事では、現在の世界が、「食料や燃料の供給で、如何に危機的な状況にあるか」を語る記事のタイトルに、「Nine meals from anarchy」という標語を使っていた。そして、これらの表現の原点は、アメリカの記者・弁護士・小説家だったアルフレッド・ヘンリー・ルイス(Alfred Henry Lewis)が、Cosmopolitan Magazineの座談会(Vol.XL、No.5(1906年3月)、p.605)の中で使った「There are only nine meals between mankind and anarchy(たった9回の食事が人間性と無秩序とを分ける)」という短い発言にある。この言葉は、その後、多くの人に影響を与えてきた。現在、先進国では環境問題を「持続可能」という言葉で捉えようとする機運が高いが、気候変動がもっと激しくなり、それが疲弊した最貧国を襲った場合、そうした「甘い」発想では危険だと警鐘を鳴らす意味で、近年になって再び脚光を浴び始めた。因みに、ルイスの1つ前の発言は「To the wolf in the man. A man is selfish. Also he is destructive as a matter of instinct(人間には狼的なところがある。人間は利己的だ。本能として破壊的でもある)」は、映画の中での監督のナレーションの、「造るよりは、壊す方が好き」「人類は、自分本位の危険な動物」という言葉に反映されている。

何らかの大異変が地球を襲い、人類の大半が死滅してから10年後。アルゼンチンで生き残った人々は、人間としての尊厳のすべてを失い、本能に従って生きるためにのみ行動する存在に成り下がっていた。人々は、大きく分けて、大人たちの小集団と(家族なら子供もいる)、大異変で両親を亡くし幼くして孤児となって生き延びてきた子供たちだけの小集団に属していた〔1~3歳の子供だけで、どうやって生きて行けたのか? 10歳前後だった孤児もいたはずで、10年後には20歳台になっているが、そうした青年はどうして行動を共にしていないのか?〕。そして、両者は、互いに生存をかけて戦っていた。映画の主人公となるのは、とある田舎に逃れてきていた十数名の孤児(うち数名が女の子)の集団。子供たちは、生きるために協力し、大人のテリトリーから小動物や野菜を盗んできては命をつないでいる〔野生の動物も鳥も死に絶えてしまったからだが、①川魚、②木の実や食べられる野草、などについて一切触れられないのはなぜだろう?〕。一方、大人たちは、襲ってくる子供を捕らえては食べている〔いくら飢えても、全員がカニバリズムに走るものだろうか?〕。映画の中で出てくる最初の襲撃で、子供たちはウサギと引き換えに男の子1人を失う。そして次に、ニンジンを盗んだ罰として、ロロという少年が拉致される。ロロの兄ラルーをはじめ、子供たちは作戦を立て、ロロ救出に向かうが、失敗してロロを死なせてしまう。打ち沈んだ子供たちに対し、少し年長のサーマという女の子が、奇妙な提案をする。エピクーに行けば助かる、というものだ。その言葉に、希望を見出した子供たちは、そこがどれだけ遠いか、そこがどんな場所かも確かめず、ただサーマについて行く。レールを歩いていけば辿り着くという話だったが、線路はすぐに消えてしまう。それでも、生き残る以外に目的を持たない集団は、その時々の出来事を楽しみながら進んでいく。しかし、旅が3日目に入り、食料も水もなくなり、辺りが荒野や砂漠になると、少年たちの間で不満が漏れ始める。しかし、そうした個人的な「反乱」は、サーマの独善的な態度の前では すぐにしぼんでしまう。子供たちは、最後には不毛の地を抜け、再びレールの上を歩き始める。その最終段階で、ラルーはチャチャという友達を失う。彼にとっては2人目の喪失だ。子供たちは、遂にエピクーに到着する。しかし、そこは理想の楽園どころか、生き物一ついない廃墟と化した町だった。そして、気がつくと、いつしかサーマがいなくなっている。ラルーは、残った8人の子供たちを前に、①サーマに騙されたこと、②2人を失ったこと、③ここでは生きるすべがないこと、を切々と話し、その後、湖に身を投げて死ぬ。そして、残った子供たちを待ち受けていたのは、さらに残酷な運命だった。なお、この映画の映像は、ほとんど白黒に近いほど彩度が下げて撮られていることをお断りしておく。

映画のエンドクレジットで、子役の名前が17人並ぶ。そのうち、4組は兄弟または兄妹か姉弟だ。その一番トップにあるのが、Thiago Stamponeという少年。IMDbの配役リストでは5人の子役の一番下で「Boy 2」と書かれているが、エンドクレジットの方が当然正しく、IMDbのリストの順番はしばしば間違っているので、恐らく、この「Thiago Stampone」が、主役級のラルーではないかと思われる。ネット上のどこを捜しても、他の子供も含め、情報は一切ない。そもそも、映画の中での役名が分かっているのは、ラルー、ロロ、チャチャ、そして、悪の少女サーマ以外は、端役のタティの5人だけしかしない。


あらすじ

映画の冒頭、英語でナレーションが入る。「人類に未来はない。この点で、科学者、哲学者、作家の意見は一致している。人間は、元々、不完全にしかプログラムされていない。造るよりは、壊す方が好きだし、楽しんで殺し合う。勝手に住み着いた土地に寄生して暮らしている。過去何千年の歴史は、この単純な事実を証明している。人類は、自分本位の危険な動物から、高度に進歩したと信じる人々は、歴史を知らず、平和な時代に見せてきた上辺だけの優しさに騙されている」。アルゼンチン映画なので、登場人物の会話はすべてスペイン語だが、長文のナレーションは何故か、すべて英語になっている。「一大異変の直撃を生き延びたほんの一握りの人々は、至る所で襲いかかる死や、過去10年の間に蔓延した疫病から逃げまどった。過度に機械に支配された社会が如何に脆かったか。わずか10年で、この体たらくまで堕ちた。10年で規範ある社会や農業基盤は崩壊し、食用になるすべてが消費し尽され、原始時代に戻った。混沌を制御し、新しい社会を築くに足る最小限の構成員もいなくなり、すべての耕作地は原野に返った。共食いは必要に応じて正当化された。かくして、無数の孤児の集団は、苛酷な運命に曝されることになった」。こうして、1つの孤児集団が体験する1週間ほどの「苛酷な運命」が、容赦なく、赤裸々に紹介されていく。映画の最初のシーンは、自給自足生活を送っている大人の小集団(家族)を、孤児の集団が襲うところから始まる。孤児たちは2つかのグループに分かれる。先遣隊の3人は、食用動物(ウサギ)を守っているヒゲ男がイスに座って寝ているのを見定めると、こっそりと近づき、一斉に石を投げつける(1枚目の写真、矢印)。飛び起きたヒゲ男は、3人を追い始める。すると、別の4人が、男のいなくなった隙にウサギ小屋に突入する(2枚目の写真)。3人を追って行ったヒゲ男には、後ろから加勢の子供が加わり、ヒゲ男を棒で殴り、ヒゲ男が地面に倒れると一斉に襲い掛かり、顔を引っ掻く(3枚目の写真)。
  
  
  

ウサギを盗みに入った子の1人は1匹をつかんで逃げるのに成功。一方、上記の3人+4人と無関係の1人が、別の男に追われて土釜のような物の中に逃げ込む(1枚目の写真)。すると、その後を追いかけてきた男は、手に持った3本鋤(先端に鋭く尖った長い鉄の歯がついた鋤)を土釜の穴に思い切り突き刺す(2枚目の写真、矢印は鋤)。逃げ場はないので、鉄の刃は少年の体を貫通する。甲高く鋭い悲鳴が上がる。余りの残酷さに耳を覆いたくなる。男は、悲鳴が聞こえなくなるまで、何度も刺す。そして、食用にするため、土釜から体を引きずり出す。絶命した少年は、胸から腹にかけて刺し貫かれ、真っ赤になっている(3枚目の写真)。
  
  
  

ナレーション:「孤児のグループは、身を守るため、固まって流浪の生活を送っている。日々の糧を得るため、そして、守り合って安全に生き抜くために。過保護にして過度の医療世代の後継者として、子供たちは病気に対する自然の免疫力を失い、最低限の感染で死んでいった」「子供たちは、住めなくなくなった都市から逃げ出した。田舎のキャンプだけが、生存の可能性を与えてくれた。一種の狩猟採集民だが、人類の祖先と違い、何の経験もなかった。味覚は既に失われ、タンパク源なら何でも口にした」。これに、掘り出したミミズを生で食べるシーンが続く。次の夜の焚き火のシーンでは、1人の男の子が、「夜しか火が焚けない。煙が見つかるから」と言う〔考えたこともなかったが、確かに日中なら遠くから煙が見えてしまう〕。その時、チャチャともう1人の子が、痩せたニンジンを束にして持ち帰り、「みんな、見ろ」と言って自慢げに見せる(1枚目の写真、矢印)。全員が飛びつき、焚き火は楽しい夕餉(げ)の場となった〔ここで、チャチャと書いたが、少年たちの名前はほとんど分からない。偶然、誰かが呼びかけた時だけ、名前が分かる。しかも、そのチャチャを誰が演じているかも分からない。また、チャチャは特徴的なシャツを着ているのですぐに見分けがつくが、ほとんどの子は上半身裸で見分けがつきにくい〕。翌朝、ニンジンを盗まれたことに気付いたヒゲ男〔最初のシーンで、3人に石を投げつけられた男〕が、「鼠どもめ。寄生虫だ」と怒る。その“寄生虫”の子供たちは、暑い日差しを避けて木陰で重なり合って昼寝(2枚目の写真)。中で2人、目を覚ましている子がいる。精悍な顔をした子がラルー、その胸に頭を置いている子がロロ。2人は兄弟だ(3枚目の写真)〔このラルーが、一番よく顔を見せ、台詞の多いので最も重要な役だ。ただ、それを誰が演じているのかは、手を尽くしても分からなかった。エンドクレジットで一番上に出てくる名前がThiago Stamponeなので、その可能性が高い〕
  
  
  

子供たちにとって本質は遊ぶこと。教えられなくても、この本能は染み付いている。どんなにひどい境遇でも、他には何もなくても、遊べば元気になるし興奮もできる」。数の上で圧倒的に多い男の子たちは、全員が裸になって渓流で遊ぶ(1枚目の写真)〔もはや、どの子が誰なのか、全く区別できない〕。そのうち、1人の子が泳いでいる魚を捕まえる(2枚目の写真、矢印)。貴重なタンパク源だ〔ただの遊びか、食べるためなのか、よく分からない〕
  
  

ラルーは1人で河原の石の上に座り、弟のロロは、近くの大木の枝からぶら下がって遊んでいる。そこに、復讐に燃えたヒゲ男が忍び寄ると、ロロをつかんで(1枚目の写真、矢印)拉致して行く。ロロの悲鳴で気付いたラルーを先頭に、他の男の子たちも服〔大抵はズボンだけ〕を着て後を追う。ヒゲ男は、暴れるロロを地面に置くと、落ちていた石で頭を殴りつける(2枚目の写真、矢印は手に持った石)。子供たちは、ヒゲ男の助っ人に現れた2人の若い男に襲いかかり、1人を殺すか、半殺しにする。しかし、ロロの姿は、もうどこにもなかった。ラルーは、「ロロ」と悲しみにくれる(3枚目の写真、矢印がラルー、右背後では、子供たちが“やっつけた”男を囲んでいる)。
  
  
  

子供たちは、ロロ奪回作戦を立てる。第1グループがヒゲ男を襲い、第2グループがその妻を襲う。2人を動けないようにしないと、ロロは救えない。待機している子供たちの中で2人の姿が映る(1枚目の写真)。右がラルー、左は名前不明の子。ラルーが、「行くか?」と訊くと、もう1人の子が「ちょっと待て」と言う。その後は、様々なシーンがカットバック的に編集されるが、ここでは、ヒゲ男の場面を先に紹介しよう。グループの中の女の子の1人が、「囮(おとり)」になり、小屋の中で待機する。小屋の中の脇には、前日に殺された男の子の皮を剥いだ肉塊が天井からブラ下がっている。ヒゲ男は、肉塊から少量を削り取ろうとしたが、暗がりに子供がいることに気付いて寄って行く。「仲間はどうした?」。女の子は嘘をつく。「行っちゃった」。「どこへ?」。「一緒に行きたくなかった。ここにいたいの」。「なんでだ?」。「彼、あたいの弟だから」〔ぶら下がっている肉塊のこと〕(2枚目の写真、矢印は女の子)。ヒゲ男も、何となくいづらい雰囲気だ。「お前らが死ぬか、俺たちが死ぬかなんだ」。「こっちだって」。さらに、「好きなようにして」と顔を伏せる。相手が女の子なので、気を許したヒゲ男が脚に触っていると、後ろからこっそり近づいた男の子が、煉瓦でヒゲ男の頭を殴る(3枚目の写真、矢印は縦に持った煉瓦)。不幸にして、子供の力なので、一時昏倒させただけで終わる。
  
  
  

もう1つのグループは5人。中心になっているのは、黒く汚れたシャツを着た少年。ヒゲ男の妻が屋外の木の台の上で昼寝をしているところに忍び寄ると、手に持った太くて長いネジ釘を女性の手の平の上に置き、上から煉瓦を何度も叩きつけ、木の台に手を固定する(1・2枚目の写真)。1枚目の写真の右端は、1つ前のシーンで「ちょっと待て」と言った子。1枚目の写真に4人しか映っていないのは、“首にかけた袋の中にタタというネズミを入れて大事にしている”男の子が、あまりの残酷さに逃げてしまったから。もちろん女性は最初の一撃から後は、必死で抵抗するが、痛さと、執拗な煉瓦の叩きつけで何もできない。4人が去った後も、ネジ釘になっているので、どうやっても手を抜くことができず、悲鳴を上げ続ける。
  
  

ラルーは、ヒゲ男がいない隙に、ロロが閉じ込められているタコ壷状の穴〔深さ5m以上で、天辺に丸い開口部のある貯蔵庫〕から覗き、「ロロ」と声をかける。幸い、ロロは生きていた。「助けて!」。ラルーは横に置いてあったロープの先端を投げ入れ、ロロがそれにつかまる。しかし、自分で登ることはできない。ラルーとチャチャの2人で引っ張り上げようとするが、2人の力では、重くてなかなか上げられない。その間、頭から血を流したヒゲ男がフラフラしながら歩いてくる様子がカットで入る。2人では、膠着状態だったが、そこに、“ネジ釘”の子が駆け寄ってきて3人目に入る。すると、一気にロロは開口部に近づく(1枚目の写真)。ところが、そこに、ヒゲ男がやって来て、手に持った棒で “ネジ釘”の子に襲いかかる(2枚目の写真)。“ネジ釘”の子は強靭なのでヒゲ男と対等に闘うが、3人→2人に減り、さらに、怖くなったチャチャが逃げ出したため(3枚目の写真、矢印は逃げて行くチャチャの足)、ラルーはたまらず手を離す。出口付近まで上がって来ていたロロは墜落し、頭を打って死亡。ラルーは、中を覗き、頭から出た血の海を見て、悲嘆にくれて逃げ去る。ヒゲ男と戦っていた“ネジ釘”の子も逃げる。
  
  
  

子供たちは、10年間使われなくて雑草が伸び放題になった線路上を歩き、できるだけヒゲ男のテリトリーから離れていく。弟を失ったラルーは、悲しさのあまり、始終うつむいて歩いている。子供たちは、昔、プールだった四角のコンクリート槽の中で休息を取る。ラルーは顔を覆って泣くばかり。前に、「ちょっと待て」と言った子(今後は、“優しい”子と表記)が、慰めようと肩に手を触れる(1枚目の写真)。その時、1人の少し年長の女の子サーマが立ち上がり、「あんなこと、やるんじゃなかった」と言い出す。“ネジ釘”の子は、「俺だって、イヤだった」と反論する。すると、チャチャが、「けど、ロロを助けるんだったんだろ」と言ったので〔彼が逃げたせいで、ロロは死んだ〕、“ネジ釘”の子は、「助けるだと? ロープを放して逃げやがって。この腰抜け!」と非難し、チャチャに殴りかかる。この内輪もめは、他に子が2人を分けて何とか収まる。その間も、ラルーは顔を覆ったままだ。この時、サーマが、また発言する。「バカな争いはやめよう。エピクーに行けば、きっとうまくいく」。「何で、分かるんだよ?」。「そこから来たから。レールをたどっていくだけでいい」(2枚目の写真)〔この言葉は怪しい。エピクーがいい場所なら、なぜ、そこを出て田舎に来たのか?〕。ここで、場面は変わり、ヒゲ男の妻が、自分の子供に無理矢理生肉を食べさせ、自分も食べている(3枚目の写真、矢印)〔ロロではなく、皮を剥がれてぶら下がっていた子の肉だろう〕
  
  
  

放浪の民は、約束の地を目指すものだ。この子たちも例外ではなかった。それが、より良き生活に対して抱く人間の自然で楽観的な欲求だから」。かくして、子供たちは、怪しい女の子サーマの提案を受け入れて、そこがどんな場所なのか訊きもせず、エピクーに向かう。映画の初めの頃のナレーションで、「子供たちは、住めなくなくなった都市から逃げ出した。田舎のキャンプだけが、生存の可能性を与えてくれた」とあったことを考えると、エピクーが都市であってはならないのだが、それすら確かめようとはしない。そして、レールのなくなった線路跡を歩き続ける(1枚目の写真)。しかし、いつしか線路跡も沼地に消え、推測で歩き続けるしかなくなった(2枚目の写真)〔この時点で、「レールをたどっていくだけでいいの」が嘘だったことになるが、誰もやめようとは言い出さない〕
  
  

沼を渡りきった時、男の子の1人が、「チャチャ、顔!」と指摘する〔ここで、初めて彼の名前が分かる〕。顔に付いていたのはヒルだった。チャチャが顔から剥がすが、痛い。そして、「お前もだ」と言い返す。最初に指摘した子の胸と腕にもヒルが付いている。全員が自分の体を見ると、あちこちにヒルが… 自分で剥がしたり、背中のヒルは剥がしてもらったりするが際限がない。ヒルはズボンの中にも侵入しているので、結局、全員が裸になってヒル退治(1枚目の写真、2つの矢印はヒル)。そのうちに、男の子たちは、お互いに泥をぶつけ合い、取っ組み合いをして遊び始める(2枚目の写真)。こうなると、どれが泥でどれがヒルなのか見分けがつかなくなるが、遊びになれば、少々痛くても構わないのだろう。
  
  

我々は、子供たちを都市に閉じ込め、自由を奪う代わりに、クリスマスごとに中毒性のある機械を買い与えたため、彼らは閉じこもり、生活能力を失ってしまった。戦争や、それによる破壊と心的崩壊は確かに大惨事だったが、問題は、人間性の健康的な再設定にあった」。雑草がはびこる荒地を歩いていく子供たち。1人の子は、足をトラバサミ〔動物の脚を傷付けて捕獲する残酷な罠〕にやられ、うまく歩けない。“優しい”子が、親切に肩を貸している。「喉がカラカラだよ」。幸い、行く手に池が見えてきた。“優しい”子は、“足をケガ”した子を池の端まで連れていき、手で水をすくって飲ませてやる。そして、砂地に横になって休む体を、後ろから抱いて支えてやる(1枚目の写真、右が“足をケガ”した子、左は“優しい”子)。「ぼく、もうダメだ」。その間に、ラルーは、みんなが休んでいる砂地の上に、木の枝を使って大きな絵を描いている。「ロロは、一度鳥を見た。すごく喜んでた」(2枚目の写真)〔手前の大きな部分が翼、ラルーのすぐ向こうが胴体、その向こうに反対側の翼〕。子供たちを、ここまで扇動(先導ではない)してきたサーマが、「いつまでも、休んでられない。エピクーに行かないと」と言い出す。もう1人のまともな女の子が、「ここから、まだ遠いの?」と訊くと、「ここに来るまで2・3日歩いた」という返事。そして、サーマは、男の子たちの意見も訊かずに勝手に歩き出す。仕方なく、他の子たちも出発することに。
  
  

そこからは、レールや枕木が残った線路上を歩く。シーンは変わり、子供たちは崩壊した鉄筋コンクリートの瓦礫の上で休んでいる(1枚目の写真)。1人だけ、まだ壊れずに残った部分に入って行った子が、ずっと持ち歩いているネズミのタタを袋から出し、手に抱いて遊んでいる(2枚目の写真、矢印)。それは、独り言というよりは、撮影者に対して話しかけているような奇妙な会話だ。「これ、ネズミじゃないかな」。タタが指に噛み付く。「噛みやがった」「動物が死ぬの見るの好きじゃないんだ。だって、何も悪いことしてないだろ。だけで、あれからいっぱい死んじゃった」。子供たちは、建物の中で、昔の雑誌を見つける。カラー印刷だ。彼らは年長で12歳。「一大異変」は10年前なので、字が読めるとは思えない。「http://www」の大きな活字を見て、「きっと、これエピクーだ」と言ったりする。最後は、雑誌の奪い合いになり、ビリビリに破ってしまう。旅の途中で見つけ、その時は、一言も口をきかず、それでも一緒について来た女に子に、サーマが声をかける。そして、「ママに何があったの?」と訊くと、「男たち」と答える。「それで?」。「最初に1人来て、それから他の奴らが来た。ママはずっと大声で叫んでた」。「それからどうなったの?」。「奴らの1人がママのここを切ったの」と言って喉を指す。「死んだのね」。「あたいも、切ってやった」。「どこを?」。「ここ」と喉を指す。「誰の」。「男たち全部」。
  
  

再び線路はなくなり、雑草のかなたに大きな平屋の建物が見えてくる。建物の正面には「国民教育省」とあるが、こんな田舎に本省があるとは思えないので、出先機関(つまり、学校)であろう〔子供たちは字が読めない〕。中に入っていくと、廊下が長く伸びている(1枚目の写真)。写真を見ると、“足をケガ”した子がここまでは来られたことが分かる。中には誰もいないので、子供たちは廊下の壁にもたれて休む(2枚目の写真)。ここで映っているのは、“ネズミのタタ”の子。判別の手がかりは首からかけたタタを入れる袋の紐。この映画では、子供たちの識別が実に難しい。
  
  

その時、奥の部屋を物色していた子が、「おい、こんなモン見つけたぞ!」と言って飛び出てくる。彼が引きずり出した木箱に入っていたのは、「COBOS」というアルゼンチン産のワインのビン〔ラベルから判断して、日本で1本2万円で売られているアルゼンチンNo.1の高級ワイン〕。ワインのビンなど 見たこともないハズだ〔当時、2歳以下〕。何とかコルクを取って、みんなでラッパ飲みを始める(1枚目の写真、矢印)〔5~6本ある〕。あまり美味しそうな顔はしないが、酔っ払ってしまったことは確か〔中には、嘔吐する子もいる〕。狂乱状態で部屋の中に置いてあったものをバラバラにしていると、ある子がケミカルライトを見つける。中に食べ物でもあるのかと折ってみると、明るく光り出す〔12時間発光タイプ、全8色で1本100円〕。初めて見るので、子供たちは競って光らせて面白がる(2枚目の写真)。すると、面白くないことが起きる。誰もいないと思っていたのに、部屋の入口に2人の大人と2人の子供が現れたのだ。女性は、「安心して。何もしないわ」「私は、この学校の先生だったの。みんな死んじゃったけど、私はここに留まった。今まで誰もいなかったけど、これで学校が再開できるかも。何て素敵なの。そう思わない?」「その光るものはね、生徒たちが戻って来た時のために取っておいたの。きれいでしょ?」。前にひどい目に遭ったヒゲ男とは明らかに違う優しい言葉遣いだ。女性は、“足をケガ”した子を見つけると、「私なら治してあげられる。クリームを塗れば、明日には良くなるわ」と言うと、隣の室に連れて行きマットレスに寝かせる。そして、みんなには、「あの子のことは私に任せて、安心して寝なさい」と話しかける。アルコール+優しい言葉で、子供たちは信頼して寝てしまう。全員が寝ると、女性は、“足をケガ”した子に、「痛い? よく分かるわ。苦しいでしょ。助けてあげる。そしたら、私の子供たちも助けてね」と言いながら、優しく胸をさする。「眠りなさい。起きたら良くなってるから」。そして、子守唄を歌う。足をケガした子が眠ってしまうと、女性は横に置いてあった枕を取り上げ、男の子の顔を覆い、思い切り押さえ付けて窒息させる。自分の2人の子と、夫のための食料にするためだ〔先に、「私の子供たちも助けてね」と言ったのは、このこと〕。男の子は、もがき苦しんだ末に絶命するが、枕で押えているので悲鳴は漏れない。翌朝、鬼女は、子供たちを起こすと、「とても悪い知らせがあります。あなたたちのお友だちは死んで、天使になりました。手は尽くしましたが、亡くなりました。ごめんなさい」と告げる。子供たちは、ベッドの上の死体を見ると、足早に逃げ去って行く。優しい女性の言葉の裏に、危険なものを嗅ぎ取ったのであろう。「疑いはない。人間のモラルは、飢餓により、すべて消え去った」。
  
  
  

その夜、焚き火を囲みながら、“優しい”子が、「昨日までいた。だけど、死んじゃって、もう忘れ去られてる」と寂しそうに言う(1枚目の写真、矢印)。“ネズミのタタ”の子は、「エピクーに着いたら、どうなるの?」とサーマに訊く(2枚目の写真、矢印)。「すごくいいトコでプールもある。大人たちは、子供たちを殴ったリ殺したりしない」〔これは明白な嘘。いったい彼女は何者なのか?~最後まで分からないまま〕「あと、2・3日で着くわ」〔昨日もそう言っていた〕。男の子たちからは、「食べ物はどうする?」。「3日なんてもたないぞ」。「水だってないじゃないか」と不安が続出するが、サーマは黙ったままだし、他の子もそれ以上追及しない。
  
  

赤ちゃんを連れた女の子タティは、それまで一緒についてきたが、翌日、先行きが不安になり、一行から離脱する。ラルーは、ロロが死んだ直接原因のチャチャと、その後なぜか親しくなっている。その、2人だけの会話。ラルー:「お前、タティや赤ん坊みたいに、出てかないよな?」。チャチャ:「ううん。ここにいる」。「約束だぞ」(1枚目の写真)。チャチャは頷く。子供たちの歩いている場所は乾燥度が増し、雑草すらまばらになってくる。レールの先に現れたのは鉄橋。枕木と枕木の間は60センチ以上あり、その下は何もない空間。結構怖いと思うのだが、子供たちは平気で渡って行く(2枚目の写真)。渡りきると、線路はなくなってしまう。チャチャが「それで? どうするんだ?」と訊くと、サーマは「真っ直ぐ行く」とだけ答える。「だけど、もう跡がないぞ。行く手は山だ」。「越えるのよ」。全員が、この言葉に従って歩き出す。
  
  

次のシーンでは、自然の状況は急激に悪化している。周りは砂漠のような荒地。(1枚目の写真、矢印は子供たち)。この映画では、このような雄大な風景が巧みに取り入れられている。子供たちは、湖沿いに歩けて幸いだと思っていた。しかし、ラルーが湖の水を飲もうと口に入れると(2枚目の写真)、「塩辛い」と吐き出す。乾燥地帯で、流入河川がなければ、地中のミネラル成分が融け出て塩湖となる。これでは、餓死の前に「渇水死」してしまう〔水を一滴も飲まないと4・5日で死亡するとされる〕
  
  

状況はさらに悪化し、山を断ち割ったような枯れ谷の底を歩く(1枚目の写真、矢印は子供たち)。なかなか見られない壮絶な風景だ。全員喉がカラカラで唇が荒れている。1人の男の子が、「もう歩けない」と言い出す。「水が欲しい」。その辺りに水は全くなかったが、子供たちはそこで歩を止め、ぐったりと座り込む。チャチャが、「まだ遠いんか? もうムリだ」と不満をぶつける。“ネジ釘”の子は、「迷ったんじゃないか?」と責めるが、サーマは振り向きもせず黙っている。チャチャは1人立ち上がり、何かないかと見回す。そして、「あれって、蜂の巣じゃないか?」と言い出す〔それらしきものは、全く映っていないので、彼の勘違い?〕。サーマは、それを無視し、「行かないと」と言っただけ。チャチャは、巣だと思ったものに近づこうとして蛇に足を噛まれる。チャチャの叫び声でラルーが駆けつける。「どうした?」。「蛇だ」「大したことない。小さかった」。ラルーはチャチャを立たせる。何とか普通に歩ける(2枚目の写真)。これ以上の会話はない。全員が、2人にならって歩き始める。
  
  

状況はさらにさらに悪化。周囲は砂と岩山。太陽がまぶしく照り付けている(1枚目の写真)。子供たちは、たまらず岩陰で休息する。“ネズミのタタ”の子が、タタの入った袋を脇に置いて横を見た瞬間、隣にいた子が袋に手を伸ばし(2枚目の写真、矢印)、袋を奪うと走り去る。気付いた持ち主は後を追うが、タタの頭は既に食いちぎられていた(3枚目の写真)。生きようとする本能の凄まじさを感じさせる怖いシーンだ。頭に来た“ネズミのタタ”の子は、グループから出て行こうとするが、行く手の砂漠の真ん中を横断して行く大人の一群(8人)を見て、慌てて戻る。
  
  
  

遠くから見ると、そこにははっきりと1本の白い線が見えた。それが、恐らく線路の跡なのだろう。大人たちの行く先にはエピクーがあると勇気づけられた子供たちは、距離を置いて〔見つからないように〕跡を追うことにする(1枚目の写真)。「飢餓の時代、良い人間は一番に死んだ。盗みや共食いを拒んだ者たちは最初に消えた。殺すことを拒んだ者たちは、真っ先に殺された。驚くにはあたらない」。子供たちは、刃物を持った男に遭遇する。しかし、男は体力の限界に達していたらしく、そのまま倒れてしまう。“ネジ釘”の子は、男の落とした刃物を奪い、倒れた男を一周して調べる。“ネジ釘”の子は、「こいつ、殺そうか?」と、子供たちに問いかける。「どうやって食べる?」。「こいつらが、やったみたいにだ」。心優しい“ネズミのタタ”の子は、「飢え死にしかかってる」と同情するが、強い“ネジ釘”の子は、「こいつを、切るのか、切らないのか?」と迫る。「こいつ、臭いぞ」。その言葉で、全員が離れる。1人残った“ネズミのタタ”の子は、タタのために残しておいたニンジンを男に食べさせてやる。男は、礼も言わずにニンジンにかぶりつくが、腐っていたのか、嘔吐して、そのまま絶命する。「死んじゃった」。戻って来た“ネジ釘”の子は、もう一度、「こいつ、切るか?」と皆に問う。「良くないことよ」。「俺たちも、されたんだ」。「お腹空いた」。賛成多数なので、「じゃあ、切るぞ」(2枚目の写真)。しかし、脚を切断しかけて、あまりの悪臭に我慢できなくなり、中止する。
  
  

子供たちが砂丘の上を歩いていると、力尽きた子が倒れて滑落する。それを見た他の子供たちが助けに滑り降りる。その時、誰かが、「もう イヤだ!」と叫ぶ。もう1人の少年が、「そうだ。いつまで、こんなバカなことさせるんだ?! いつまで続く?! あと、どれだけだ?! もう、行かないぞ! 飢えか渇きで死ぬだけだ! 時間のムダだ!」と、怒りを爆発させる(1枚目の写真、矢印)。“ネジ釘”の子も、「俺もヤメる。みんな、俺と来いよ!」と声を上げる。しかし、サーマが、「ヤメるなら そうしたら? だけど、私は行き先を知ってる」と言い、1人で歩き始める。残りも、惰性で、仕方なく跡を追っていく。ある場所まで来ると、砂の上に足跡がついている。それを見つけたサーマが、自慢げに、「見なさい、足跡よ」と言う(2枚目の写真、矢印)。さらに、遠くを指差して、「あそこに線路がある!」と叫ぶ。それを見た全員が、線路目がけて走り出す。
  
  

子供たちは、線路に沿って歩いている(1枚目の写真、左がラルーで右がチャチャ)。チャチャはかなり疲れている。ラルーが、「大丈夫か?」と声をかける。「うん。何とか」。暗くなると、子供たちは、線路が道路を跨ぐところに造られた短い橋の下で眠る。ラルーが目を覚ますと、右腕の上にチャチャの頭が乗っていて、重くて動かせない。何とか引き抜いて、チャチャの顔を揺するが(2枚目の写真)、もう息絶えていた。ロロに次ぐ2人目の死に、ラルーの心は張り裂ける。そして、皆が寝ている先の草むらまでフラフラと歩いて行くと、そこで意識を失って倒れる。
  
  

子供たちは、やっとのことでエピクー駅の跡に到着する(1枚目の写真)。駅を過ぎると、野原に巨大な「Matadero(食肉処理場)」の廃墟が現れる。さらに、湖畔に近づくにつれて広大な市街地が出現する。空撮カメラは、生き残った10人の子供たちが巨大なエピクー(Epecu)の廃墟に入っていく様を、圧倒的な迫力で見せる(2枚目の写真)。もちろんCGではない。こんなことが可能になったのは、アルゼンチンのブエノスアイレス州にエピクーエン(Epecuén)という廃墟の町があるからだ。エピクーエンは同名の塩湖〔琵琶湖の1/4ほどの大きさ〕に1921年に造られた塩水浴を目的とした観光の町だった〔被災時の人口1500人〕。1975年になって湖の水位を調整するための水路の建設が始まったが、翌年の「汚い戦争」により中断。1980年から降水量が急激に増えたため、町は高さ4メートルの堤防で浸水を防ごうとした。しかし、1985年10月に湖水が堤防を越えると、町全体が浸水した。1993年には7メートルの深さまで水没し、町全体が放棄された。20年後、水位は下がり始め、2010年には廃墟となった町が再び姿を現した(3枚目の写真)。映画では、この廃墟と化した町が、似たような名前でそのまま使われている。
  
  
  

映画は、その後、12名の子供が数10センチ水没した地域を歩く場面〔以前の10名は、前後100メートルに誰もいない状態での空撮だったので、間違えようがない。12名は明らかな撮影ミスを経て、真上からの俯瞰で9名に減っている状態が示される。この9名という人数は、その後の枯れ木で囲まれた元公園にいるのが9名であることからも確認できる(1枚目の写真)。なぜ、10名でなく9名なのか? ここで、ラルーが大演説をぶつ。「こんなことのために こんなに歩いてきたのか? 僕らが来たトコより、ずっと悪いじゃないか。サーマはどこだ? あいつ、ダマしたんだ。僕らを捨てて、いなくなった。僕に、何が残った? ここにいる、これだけか? これが、弱肉強食の法則なのか? 何が残った? 僕は、弟を殺した。チャチャを死なせた。こんなに減っちゃった。たったこれだけなんだ」(2枚目の写真)。
  
  

10名の子が、水没エリアで佇んでいる〔ここでは、8名のはずなので、また撮影ミス。すると、水の方を見ていた“優しい”子が、水面に浮かんでいる死体を見つける(1枚目の写真)。顔は映らないが、長い髪、灰色のズボン、白い靴から、恐らくラルーだろう。そうなると、先の「大演説」で言っていたように、絶望し悲嘆にくれたからであろう。残された8人は、水のない部分に戻る。“ネジ釘”の子は、「もう、こんなのイヤだ。疲れた」と発言する(2枚目の写真)。「俺は、どこか他のトコに行く」。そして、「一緒に来るんなら…」と言って向きを変えると、先のヒゲ男が棒で殴りかかる(3枚目の写真、矢印)。棒は“ネジ釘”の子の頭を直撃。子供たちは、それを見て一斉に逃げ出す。映画の最後に挿入された、監督のインタビューで、サーマについて訊かれた監督は「ノーコメント」と答えているが、彼女は、ヒゲ男と結託していて、子供たちを“食用”にするため、エピクーまで連れて来る「扇動」係りだった可能性が高い〔だから、町に入るとすぐに消えた〕
  
  
  

子供たちを待ち受けていたのは悲惨な運命だった。2人の男の子は、鬼女2人に追われ、1人は網に捕らえられる(1枚目の写真)。“ネズミのタタ”の子については、何がどうなっているのかよく分からない。体を変に震わせているが、別に何かが刺さった訳でもなさそう。オシッコを漏らすのだが(2枚目の写真、黄色の矢印)、最低にお粗末なのは、その「オシッコ」を撮影用に供給するビニールチューブが画面に映り(赤の矢印)、僅かだが、それを持っているスタッフの指まで入っている点。ヒゲ男に殴られた“ネジ釘”の子は一旦は逃げるが、最後は腹部に長いナイフを刺されて死ぬ(3枚目の写真、矢印)。
  
  
  

網で何人捕まったのかは分からないが、そのうちの1人は、うまく網から逃げ出し、最後は、木に登って姿を隠す〔恐らく、助かった?〕。もう1人幸運だったのは、旅の途中で同行するようになった女の子〔男をみんな殺したと言っていた〕。男が近づいた瞬間、手元に置いておいたビール瓶を叩き割り(2枚目の写真、矢印)、ギザギザになったビンで男の首を刺した〔男は恐らく死に、少女は確実に逃げた〕
  
  

もじゃもじゃ頭の男の子は、壁の穴から抜け出そうとして、待ち構えていた男に、大きな鉄のハンマーで頭を殴られて死亡(1枚目の写真)。もう1人の男の子は、網で捕獲され、2人に運ばれて来て(2枚目の写真)、ロロを閉じ込めていたようなコンクリート製の地下室に上部の穴から投げ込まれる。結構深いので、そのまま絶命する(3枚目の写真)。サーマに騙されてエピクーまでやってきた子供たちの運命は あまりにも悲惨だ〔まさか、こんな結末になろうとは、想像だにしなかった〕
  
  
  

    の先頭に戻る                 の先頭に戻る
   アルゼンチン の先頭に戻る        2010年代後半 の先頭に戻る

ページの先頭へ